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世界最高峰の心臓外科医が留学後に受けた「屈辱」、「白い巨塔」にはびこっていた“排除の力”とは

iconYAHOO·JAPAN

2024-06-23 18:02

ほんのわずかなミスが患者の生死に直結しかねない心臓外科医。そんな心臓外科医として、14年連続で「The Best Doc...

  留学中に上げた成果は、日本ではなかなか認められなかったという

  ほんのわずかなミスが患者の生死に直結しかねない心臓外科医。そんな心臓外科医として、14年連続で「The Best Doctors in Japan」に選出されている渡邊剛氏ですが、その活躍の裏側には、留学先のドイツで恩師にかけられた言葉と、帰国後に日本で告げられた驚くべき言葉があるといいます。

  *本稿は渡邊氏の著書『心を安定させる方法』から、一部抜粋・編集してお届けします。

  ■ドイツ留学時に恩師が授けてくれた「ある言葉」

  「Selbst ist der Mann(人に頼るな)」

  これはドイツ留学を終え帰国する際に、師であるハンス・G・ボルスト教授が授けてくれた言葉です。当時32歳だった私は、「孤独でもがんばれ」と言われたのだと思いました。

  ハノーファー医科大学に入った直後の私は、孤独でした。のちに私の実力が認められ、よき仲間となるのですが、最初は「この日本人は、ここに何しに来たんだ」と言わんばかりの冷たい視線を向けられ、嫌がらせもされたものです。

  そんな経験をしていた私を見ていたので、「日本に帰ってもつらいことはあるだろう。孤独でもがんばれよ」と言ってくれたのだと思い込んでいたのです。

  実際、帰国後に金沢大学附属病院でそんな状況に陥り、ボルスト教授の言葉を思い浮かべもしました。でも60歳を過ぎた現在、ボルスト教授が授けてくれた言葉の本当の意味は、そうではなかったと理解しています。

  先生は、こう伝えたかったのでしょう。

  「答えは自分のなかにしかない。自分がなすべきことは自分だけが知っている。人を気にせず自分を磨け、そして強い気持ちを持って信じろ」

  みなさんを形作るのは、みなさんが歩んできた道のりです。その道は幸せなことばかりではなく、むしろ孤独で長く険しい道でしょう。

  私もドイツで、豚の心臓相手に来る日も来る日も手術の練習を繰り返しました。この暗闇は、本当に晴れるときが来るのだろうか。こんなことをしていて、本当に自分が目指す医師になれるのだろうか。

  周りに味方が誰もいない環境で、自問自答を繰り返し、心が沈みそうなときもありました。ですが、そのおかげでいまがあります。

  飲み込みが遅くても、成長が遅いと言われても、なんのためにそんなことをしているんだと周囲から揶揄されても、気にする必要はありません。未来の自分を強く信じて、ひとつずつレンガを積むように、時間をかけて成長していきましょう。

  ■「量」なくして「質」は生まれない

  「天才なら努力をしなくてもできる」

  そんなふうに思う方もいるかもしれませんが、私からすればそんな人はいません。もともとセンスも技術も持ち得ている人が、さらに努力を重ね、そのうえで「天才」と呼ばれる人物になりえるのです。努力とは、いわば「こなす量」です。

  ドイツ時代の留学先、ハノーファー医科大学のあるハノーファーは、ベルリンから西に300キロに位置する街で、1960年代に創設された大学は郊外にありました。同大学の胸部心臓血管外科は年間の開心術(心臓にメスを入れる手術)約1500例、心臓移植約100例。ドイツにおける外科手術の中心を担っていました。

  この外科の主任教授であったボルスト教授は、大動脈瘤を専門とし、ドイツにおける心臓外科の草分け的存在。当時60歳くらいで、とても厳しい方でした。

  私はハノーファーで過ごした約2年半、病院内の宿舎から外に出ることはほとんどありませんでした。ヨーロッパ観光を楽しんだ記憶もありません。自分を律さないと成長を目指して闘えない状況だったからです。

  ボルスト教授は何事にも厳しい方でしたから、一時も気を抜けません。ずっと気持ちを張り詰めていました。

  日本にいたころは早起きが苦手でしたが、そんなことも言っていられません。毎日、朝7時から病院で行動せねばならなかったのです。

  まず病棟回診、医師ミーティング、その後はボルスト教授のICU(集中治療室)回診に同行。そして8時15分からは手術が始まります。

  手術がすべて終わるのが午後3時ごろ。それから昼食をとって病棟を回ったあとに5時からは移植患者の術後管理ミーティングなど……すべてが終わるのは夜の7時過ぎでした。それから宿舎に戻るのですが、そのあとに緊急手術が飛び込み、再び白衣を身にまとうことも多々ありました。

  毎日2~3件の手術に立ち会うことは、日本ではできない経験でした。3つの手術室で、それぞれ2~3件の手術が毎日行われます。そして驚いたことに、日本では8時間かかっていた手術が2時間前後で終わるのです。

  それだけではありません。患者さんの回復も早く、早期に退院していくのです。当時の日本との心臓外科手術のレベル差を痛感しました。

  そんな体験ができたことは有意義だったのですが、ハノーファー医科大学留学直後の私のメンタルは相当やられていました。語学学校に通ったとはいえ、私のドイツ語は周囲とコミュニケーションをとるのに充分ではありませんでした。徐々に解消されていくのですが、最初の数カ月はそのことでかなりのストレスを抱えていました。

  また、周囲から向けられる目も冷たいのです。「よくわからないよそ者が来た」。ドイツの医師たちは、そんなふうに私を見ていたと思います。初めてボルスト先生の医療チームに加わり、そのやり方を何もわからない私に対して誰も助け船を出してくれませんでした。

  私が飛び込んだ世界は、完全なる実力主義社会でした。自分より年上だからとか、先に入ったとかは関係ありません。上手いか、上手くないか。ただそれだけです。

  なぜなら、それが患者さんの命を救うことにつながるからです。

  おいしくないレストランには行かないでしょう。下手な美容室でわざわざ髪を切ってもらおうとは思わないはずです。どの世界でも同じです。質を確立するためには、量しかありません。「量のない質」はありえません。ただの幻想です。

  ■帰国後に告げられた「忘れられない言葉」

  成果を上げているのに、周囲から評価されない。自分のほうがうまくやれているのに、認められない。「実力主義」とはかけ離れたところで、実力を発揮するチャンスを妨げられる―。

  これらは病院に限らずどの業界でもあることかもしれませんが、当事者にとってはつらいことです。

  留学先のドイツから日本へ帰国したときの話です。

  ドイツで学んだことを、日本の医療に活かしたい。患者さんたちのために、よりよい手術を実践していきたい。そう強く決意し、帰国したのにもかかわらず、「君の居場所は、ここ(金沢大学)にはないよ」と言われ、金沢大学の医局から富山医科薬科大学への異動を命じられました。

  留学中に私が上げた成果は、喜ばれることなく逆に妬まれ、排除の力が働いたようでした。寂しさを感じました。と同時に、実力主義であるドイツとはかけ離れた日本の現状を憂い、「なんとかしなければいけない」とも思いました。

  医療は、患者さんたちのためにあるべきです。医者のためでも、ましてや医者たちの政治のもとにあるわけでもありません。優れた医療こそが、トップ・プライオリティでなければいけないのです。

  ただ、若い医者がひとりで声を張り上げたところで、何も動かせません。それが現実で、組織内で力を持つことも必要なことも知りました。

  もしみなさんがいま、思うような評価を周りから得ていないと感じたり、いくらがんばっても何も変わらない状況が続いていたとしましょう。そんなとき、どうするべきか?

  理不尽だと感じても会社の方針に従い、悔しさを忘れることに努め仕事に従事する。あるいは「やってられるか!」と啖呵を切って会社を辞める。

  いずれも不正解です。

  なぜ、いま自分と周囲の評価がかけ離れているのかを考えるべきなのです。自分に何が足らなかったのかを。あきらめても、自棄を起こしてもいけません。私がもしあのときに自棄になっていたら、世界一の心臓血管外科医にはなれなかったでしょう。

  周りからの評価は冷静に受け止め、いま何が足りていないのかに気づくことが、自分の心の成長につながるのです。

  ■「屈辱」をバネに難手術を次々と成功

  人が大きく成長するカギは、挫折を味わったときと、屈辱を味わったときだと思います。

  挫折は自分との対話によって味わうものですが、屈辱は誰かによってもたらされる、より味わいたくない感情です。残念ながら私は後者でした。

  ハノーファー医科大学での2年半、そして富山医科薬科大学での8年間は、私を医師として大きく成長させてくれました。

  富山医科薬科大学時代に「オフポンプ手術」「アウェイク手術」そして「完全内視鏡下手術」に取り組み、成果を上げられたことには、周囲の方たちにも深く感謝しています。

  とくに、私のチャレンジを温かく見守ってくれた山本恵一教授には感謝の念に堪えません。

  もし、ドイツから帰国したあと、金沢大学に残っていたら飼い殺しにされてチャレンジできなかったかもしれません。いま振り返れば、富山医科薬科大学に勤められたことは、私にとって幸運なことでした。

  それでも、かつては尊敬していた金沢大学の助教授から、「君の居場所は、ここにはないよ」と告げられたあの日のことは絶対に忘れないと心に誓いました。

  ■8年間揺るがなかった断固たる「決意」

  嫌なことや理不尽に感じることからは「逃げる」という選択肢をとってもいいと思います。体も怪我をしたら手当てをし、リハビリを行って復帰していくように、心も傷を負ったら同じことをすべきでしょう。

  ですが、もっとも大切にしていること、たとえば自分の想いや夢を汚されたときだけは、向き合い、立ち向かってください。

  とくに、あなたが心のなかで育ててきた想いを、誰かが自分の利益だけを考えて放った発言によって破壊することは、許されないのです。

  「必ず旧態依然とした医療のやり方を変えてやる。患者さんたちのためにも」

  あのときの決意は結局、8年間、揺るぎませんでした。それがあったからこそ、心臓外科手術に真摯に対峙してこられたのだとも思います。

  受けた屈辱は、成長しようとするあなたの心のエサになります。時間をかけても構いません。屈辱と向き合い、多くを吸収し、心をより大きく成長させましょう。

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