何かを失敗したとき、「時間を巻き戻せたら……」と思ったことのある人は多いでしょう。現実には難しくとも、SF作品に登場する主人公がいとも簡単に過去に跳躍し、自身の失敗や、誰かとのすれ違いを解消しようとチャレンジする姿は、私たちの好奇心を喚起します。
いったいどこまでが科学的に解説可能なのでしょうか? そんなサブカルチャーに描かれた「時間の流れ」について、サイエンスライターの吉田伸夫氏による最新刊『「時間」はなぜ存在するのか』よりご紹介します。
■サブカルチャーに見る時間遡行
最近、漫画・アニメ・ゲームなどのサブカルチャーと呼ばれる分野で、「過去に戻ってやり直す」というプロットの作品がかなり頻繁に生み出されています。
「過去改変」とか「歴史改変」と呼ばれるプロットで、主にSF作品として構想されますが、ふつうに考えるとタイムパラドクス問題が避けられません。作家からすると、常識と反する状況が面白いのでしょうが、科学者は、パラドクスの有無がどうにも気になります。
SFの中には、読者や視聴者を幻惑するための仕掛けとして、タイムパラドクスを利用する作品もあります(ネタバレになってしまうので、具体的な作品名は挙げません)。
逆に、主人公が何度も過去に戻っているのに、まるで手品のようにタイムパラドクスを回避することで興趣を盛り上げる作品もあります。ロバート・A・ハインラインの短編小説「輪廻の蛇」は、その究極的な例かもしれません。
ただし、タイムパラドクスをSF的な仕掛けとして積極的に利用するケースは比較的少数であり、多くの作品では、パラドクスから目を背ける、あるいは、パラドクスは(なぜか)起きないことにする――という方法をとっています。近年の日本の作品からいくつか例を挙げましょう。
■筒井康隆「時をかける少女」の時間跳躍スキル
過去改変をテーマにした日本の作品でよく知られているのが、筒井康隆の中編小説「時をかける少女」(1967)でしょう。
主人公の女子中学生は、不思議な出来事をきっかけに時間跳躍の能力を獲得し、トラックに轢かれそうになった瞬間、前日に戻って同じ一日を繰り返します。
この時間跳躍は、身体などの物質的存在が時間移動するのではなく、意識だけが過去に飛ばされるので、タイムパラドクスは起きないと思えるかもしれません。
しかし、ヒロインは未来の記憶を保持しており、それを使って翌日の交通事故を回避することができます。もし轢かれそうになるという体験が実際に起きないのならば、なぜそんな記憶を持っているのか説明が付きません。これが、情報に関するタイムパラドクスです。
「時をかける少女」は、中高生向けの雑誌に連載されたジュブナイル小説であり、科学的な説明はほとんどありません。むしろ、自分が他者と異なる人間に変化してしまう怖さや、明瞭な記憶が事実でないかもしれないという不安のような、思春期の惑いを描くことが主目的の作品なので、あえてパラドクスには目をつぶったのでしょう。
この小説は人気を呼び、繰り返し映像化されます。特に有名なのが、大林宣彦監督による1983年の実写映画と、細田守監督による2006年のアニメ映画です。
大林作品では、起きなかった出来事の記憶というモチーフを拡大し、自分が事実だと信じて疑わなかったことが、実は捏造された記憶だった悲哀が強調されました。
一方、細田作品では、自分にとって都合の悪い出来事を時間跳躍で「なかったこと」にしているうちに、自分の力ではどうにもならない大きな悲劇を生み出してしまう物語が展開されます。
どちらの作品も、科学的な合理性はありませんが、時間の問題を人生のあり方と結びつけた名作です。
■ゲーム『Steins;Gate』の歴史改変チャレンジ
近年のサブカルチャーで特徴的なのが、「何度も繰り返し過去に戻る」という設定が好まれることです。この傾向は、1980年代から流行が続いているPCゲームに起源がありそうです。
AVG(アドヴェンチャーゲーム)やRPG(ロールプレイングゲーム)と呼ばれるゲームでは、プレーヤーが主人公のキャラクターを操って、さまざまな冒険を体験します。
しかし、何の障害もなく最後まで話が進んでいくのでは、面白くありません。途中で凶悪なモンスターに襲われたり悪人の奸計にはまったりして、命を落とします。そうなると、セーブポイントまで戻って、途中からゲームを再開しなければなりません。このとき、プレーヤー自身はしくじったときの記憶を保持しているので、今度は艱難をくぐり抜けて先へ進むことができる訳です。
こうしたAVG/RPGの流れを物語に応用したのが、「繰り返し過去に戻る」というSF的設定であり、この設定を最大限に利用したのが、それ自体がAVGである『Steins;Gate』(2009)です。2011年にテレビアニメ化され、大ヒットしました。
ひょんなことからタイムマシンを発明してしまった青年が、ある悲劇的な事件を阻止するため、何度も過去に戻って歴史を変えようとするストーリーが展開されますが、これで解決かと思った瞬間に、意外な形で話が急転するのが見所です。
このゲームの特徴は、至る所に学術用語が使われ、科学的な装いをしていることです。
タイムマシンの仕組みに利用されるのが、カー・ブラックホールです。これは、自転するブラックホールであり、エネルギーを呑み込む一方ではなく取り出せる可能性があるなど、興味深い時空構造をしています。
ブラックホールの内部には、一般相対論の方程式が破綻する特異点(シンギュラリティ)が存在します。カー・ブラックホールの場合、特異点は点ではなくリング状であり、『Steins;Gate』では、そこを通り抜けるようにして、記憶情報を過去の自分に送信します(実現は難しいでしょうが)。
興味深いのは、時間遡行して過去に影響を及ぼすと、「世界線が移動する」と主張される点です。これは、過去に戻ると新たなパラレルワールドに入り込むことに相当し、ドイッチュ流の多世界解釈を想定していると思われます。
多世界解釈では、すべてのパラレルワールドが並存するとされます。しかし、それでは悲劇の起きる世界と起きない世界がともに存在するので、悲劇を回避したことにはなりません。
『Steins;Gate』では、未来から干渉が行われた時点で、一つのパラレルワールドだけが言わば“実在化する”という設定になっています。
その際に情報のパラドクス(起きない出来事の記憶がある)が生じるはずですが、実在しなくなったパラレルワールドの情報を保持する特殊能力(AVG/RPGにおけるプレーヤーの視点? )を主人公が持っているという“言い訳”をしています。
作中で頻繁に使われる「世界線」という言葉は、学術用語の誤用だと思います。
相対性理論で謂うところの世界線とは、4次元時空内部における運動物体の軌跡のことで、世界がどう変化するかを示す道筋ではありません。
ただし、世界全体の状態を超多次元フェイズスペース(と呼ばれる数学的な仮想空間)内部の軌跡として表した「世界の世界線」を指すとすれば、意味は通じます。
『Steins;Gate』の主人公は、過去に戻っても簡単には未来を変えられないという物理的制約のせいで苦労します。この物理的制約は作中で「アトラクタ」と呼ばれますが、これは、初期条件を少し変えても最後にはよく似た状態に収束するようなシステムにおいて、収束する最終状態を表す用語です。
例えば、宇宙空間でガスや塵が凝集する場合、重力などの影響で扁平な渦巻きになるのが一般的ですが、この扁平な渦巻きがアトラクタに相当します。物理学的に見ると、『Steins;Gate』のように、人間が起こす悲劇的な事件がアトラクタになることはありません。むしろ、過去改変を行うとバタフライ効果の方が顕著に表れ、予想もつかない出来事が起きる蓋然性が高いと思われます。
『Steins;Gate』の宣伝に「99%の科学と1%のファンタジー」という惹句が使われますが、そんなに科学的ではありません。もっとも、その点を批判するのは野暮というものですが。
■テレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の無限タイムループ
「何度も過去に戻ってやり直す」という設定が人気を呼ぶのは、AVGやRPGなどのゲームに親しんだ人が作品世界に入り込みやすいからでしょう。こうしたゲームは、一貫してプレーヤーの視点で描かれ、他者への配慮は乏しいのがふつうです。
多世界解釈に基づく作品で気になるのは、主人公の行動によって別の世界が丸ごと消滅するという展開になるとき、自分の人生体験が「なかったことにされる」人々に言及されていない点です。
1930年代の量子論でも、「人間の観測行為によって何が起きるかが決定される」という議論がなされましたが、ならば観測していないその他大勢の人間はどうなるという問いにはまともに答えられませんでした。
1960年代以降の量子論では、統計的な性質を考慮する手法が進歩し、人間による観測を重視する研究者はあまり見かけなくなっています。
「なかったことにされる」人々に目を向けたのが、2009年のテレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の中のエピソード「エンドレスエイト」です。
この作品で描かれるのは、自分の思い通りにならなかった日々をやり直したいと願う少女が、無意識のうちに超能力を発揮して、世界全体の時間を巻き戻してしまう過程です。
時間を巻き戻したものの出発点となる条件が同じなので、結局、何度やっても思い通りにならず、再び時間が巻き戻されるのですが、そのたびに「なかったことにされる」人々の姿が丹念に描写されます。
同じ歴史が何度も繰り返されるというSF作品の中では、プレーヤー視点に束縛されず他者への配慮を示した傑作だと思います。